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STAFF

インタビュー

​杉田浩崇

准教授

専門分野:教育哲学

趣味:将棋

好きなもの:皿うどん

東広島のお気に入りのお店:オステリアセレーノ

                 (OSTERIA SERENO)

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研究内容

言語や身振りで内面を表出することが難しい子どもとのコミュニケーションが成立する条件を、ウィトゲンシュタインという哲学者の著作を読みとくことで研究してきました。治療の停止や臓器移植をめぐる生命倫理の問題圏を中心に、重度障害のある子どもの生とそれに応答する周囲の人々の倫理的な態度について考えてきました。また、他者である子どもの学習や成長を測定し、教育的な働きかけを確実なものにしようする動向(最近では、エビデンスに基づく教育政策・実践やデータ駆動型の教育)や、それに伴って教師の専門職性や教育学という学問のあり方がどのように変わりうるのかについても研究しています。その他、道徳哲学や日本の思想についても関心を持っています。

主な研究論文・著書

・杉田浩崇『子どもの〈内面〉とは何か――言語ゲームから見た他者理解とコミュニケーション』春風社、2017年

・杉田浩崇・熊井将太編『「エビデンスに基づく教育」の閾を探る―教育学における規範と事実をめぐって』春風社、2019年

・杉田浩崇「情報技術社会における統治性に接ぎ木されない主体像―ポストヒューマン的社会状況における「人間であること」を論じるために」石井英真・仁平典宏・濱中淳子・青木栄一・丸山英樹・下司晶編『教育学年報13 情報技術・AIと教育』世織書房、2022年、193‐211頁

インタビュアー:末次沙彩・米村美輝(学部4年生)

​        ※インタビューを実施した2021年度の学年

教育学分野への道

~比較教育学への興味から、教育哲学へ至ったきっかけ~

末次 沙彩:

先生は事前アンケートで教育学に興味を持った理由として、「もともとは高校時代に、比較教育学をやってみたいと思ったのがきっかけです。国や地域によって人々の考え方の違いがあるのはどうしてなのかを考えるときのひとつのアプローチが、教育の国際比較でした。」と書かれていますが、比較教育学にはどのようにして出会われたのですか?

杉田 浩崇:

きっかけは、高校時代に青年海外協力隊の人の講演があって、そこで内モンゴルの教育について話を聞いたことです。

また、日本の歴史について書かれているのを読んでいたときに、日本から見た場合と海外から見た場合で違った見え方がするのだと感じたこともきっかけです。

日本って結構変なところなんだなあと思って、自分たちが当たり前だと思っているものがどんなふうに形成されているのだろうかと興味をもって、比較教育学を学びたいと考えたわけです。

末次 沙彩:

最初に興味をお持ちになったのは比較教育学ですが、専門にしているのは教育哲学ですよね。大学4年間で何があって、教育哲学のゼミに進むことになり、今に至るのですか?

 

杉田 浩崇:

よくわからないんですよね。(笑)

教育哲学の授業で丸山先生(教育哲学研究室)に苦しめられた(笑)ときですかね。当時から丸山先生の授業のスタイルは変わっていないんですが、その授業でいろいろ思うところがあって、倒さなければならないとおもって。

丸山先生に影響を受けたのは大きいですかね。子どもの他者性や教育の暴力性といった視点で教育を考えることに驚きを感じたのと、自分が当時関わっていたボランティアで、社会福祉施設で障がいのある子どもと関わっていたんですけど、いわゆる通常の学校とは違う教育を考えたときに、通常の学校の暴力的なところとか、その制度のはざまにいる人たちのことをどう考えたらいいのか、ということが重なって、教育哲学研究室に入りましたね。あと、教育哲学が自分の考え方にあっていたというのはあると思いますね。

私は比較教育学か、社会教育学か、教育哲学かで迷っていて、比較教育学研究室に入る場合には、日本の植民地支配下における宗教教育はどうなっていたのかを調べようと思っていて、社会教育学研究室に入る場合には、社会福祉施設における教育について考えたいと思っていましたね。……3つの研究室選びの理由って、つながっていると思って話しはじめましたけど、つながってないかな(笑)。

まあ、でも、自分たちが当たり前だと思っているものを相対化したい、というのが根底としてあったのかなと思います。それは入学時に比較教育学をやりたいと思っていたときとそんなにずれていないと思います。いま私たちが当たり前だと考えている常識や制度がどのように形成されてきたのか、その当たり前は妥当なのか、ということを考えるという点ではつながっているのかもしれません。

「複雑なものを複雑なままに切り取る」

~恩師、丸山恭司教授とのエピソード~

末次 沙彩:

先程、丸山先生の影響を受けた、とおっしゃっていましたね。事前アンケートでは、先生との思い出のエピソードに「複雑なものを複雑なままに切り取る」という言葉だけ書いてあって、これはどういうエピソードなんだろうな、と。

 

杉田 浩崇:

いま振り返ってみても、当時の自分はかなり凝り固まった考えを持っていたと思うんですね。5類(教育学コースなどが所属する学部の分類の1つ)ってなんか、ななめにみてるじゃないですか、色んなものを(笑)。

大学1・2年生のときは「どうせ学校なんて国家が思い通りの人間を作るための装置だよね」とか、色々と紋切り型のステレオタイプで学校教育を批判的に捉えていたので、研究室に入りたての頃は、「教育はこうあるべきだ」とか、「いまの学校教育は間違っている」とか、そんな青臭いこと言いがちだったんですけど、丸山先生から「学問とはそういうふうにあるべきものを提示するのではなくて、目の前に起こっている複雑なものを複雑なままに切り取る、そういう技法みたいなのを身に着けないといけないですね」みたいなことを言われた、と記憶しています。それが自分の中でヒットしたというか、残って。

 

末次 沙彩:

なるほど。

 

杉田 浩崇:

正確には修士課程に入ってから言われた言葉なのかもしれませんが、凝り固まった考えをほぐす、というのは学部3年生のときくらいから、いやもしかすると、その前の授業のときくらいから、していただいたのかな。

研究者としての心得として、先生の言葉が響いたのだと思います。

教育学や教育哲学の学問分野の魅力とは?

~教育哲学が持つその独自性~

末次 沙彩:

今、専門の先生として研究していらっしゃいますが、教育学や教育哲学の学問分野の魅力を教えていただきたいなと。

 

杉田 浩崇:

なかなかむずかしいですよね。自信をもって研究しているわけではないので、悩みますよね。というのも、教育哲学って、方法論や対象とかがかっちりきまっているわけではなくて、学問する態度みたいなところは、他の学問領域とも共通すると思うんですよね。前提を疑ったりとか、いま私たちが使っている概念を「本当なのか?」と問うたりする学問であって。ただ、そのときのやり方はやはり他の学問領域と比べて専門的で、概念がどう変遷してきたのかを歴史的にたどり直したり、私たちが使っている概念が近接する概念と比べたときにどう違うのかとかを考えたりします。

例えば、アクティブ・ラーニングとかまさにそうですが、「アクティブ」という言葉を使うときに前提になっている学習観や人間観を問いなおしてみると、歴史的に振り返ればそれほど普遍的に望ましいとも限らなかったり、ある特定の文脈で価値あるものとして考えられるようになったのかもしれない。あるいは、「アクティブ」と「パッシブ」って対比的に捉えられているけれど、その対比的に捉えられている枠組みそれ自体が実は近代以降のものだったりとか、そんなふうなことを考えたりしますね。

「アクティブ・ラーニング」って言えば、能動的に主体的に学ぶというイメージでもって、子どもが興味をもったり関心をもったりしたものを積極的に自分ごととして考える活動がいいんだろうなと思われると思うんでしょうけど、

物事に興味をもったり関心をもったりする、その初発は、世界の謎に出会って、当惑するということなのかもしれない。当惑したり、上手くいかなかったりする経験、つまり受動的で「被る」ような経験が学ぶことの出発点かもしれない。それを忘れて「アクティブ・ラーニングというのはこうだ!」というふうに言ってしまうと、もしかすると間違った学習観で、子どものアクティブ・ラーニングを引き起こそうとしてしまうかもしれない。

言葉に踊らされるのではなくて、言葉が持っている広がりだったりとか、深みだったりとか、歴史的に背負ってきたものなどまで考えるのが教育哲学の魅力かな。伝わりますかね。

 

末次 沙彩:

お話を聞いていて、たしかにそこが魅力に感じているところではあります。私としては、もうそろそろ4年間大学で学んできたことになるのに、未だに「教育学ってなんだ?」みたいなところがあって、もっというと、「教育哲学ってなんだ?」ってなっていて。私の話みたいになってしまっていますが、

学べば学ぶほど、「これだ!」っていうのが言えなくなってきているんですよね。

 

杉田 浩崇:

教育哲学って、こんなこと言ったら怒られるかもしれないですけど、質的研究や量的研究など、研究方法が厳密に作られている学問領域とは違って、明確な研究方法があるかっていうとはっきりしないんです。もちろん、色んな方法があるにはあるんですよ。概念分析とか思想史研究とか。でも、こうやればどんな人でも必ず同じような研究ステップを踏めるような研究方法があるかと言われるとそうは言えなくて。その意味では、教育哲学ってなんなのかよくわからない。前提を疑うとか、よく知らず使っている概念を対象にして考えるっていう点がポイントなんでしょうね。

社会学は目の前に起こっている、社会学的な現象、ダイナミズムを捉えることを主眼に置きますが、

事実を明らかにするのは教育哲学の得意にするところではなくて、それよりもその事実を明らかにする際に使っている概念や前提となっている物の見方を問うことをやるわけです。

でも理論社会学っていうのがあって(笑)。そことの違いを言い出すと難しいんですけど。

そうすると教育哲学的な態度はどの学問領域でも求められるのだと思いますが、何かを記述するときの概念や教育に関するものの見方を歴史的・思想史的な視点から捉えたり、概念間の関係をつぶさに調べ問うたりする点では区別できるのだと思います。

 

学部生と大学院生の違い

~教育哲学研究室の特性~

米村 美輝:

いろんな研究室で、学部生と院生に対しては教員の態度は違う、という噂をよく聞くんですが、教育哲学における、学部と院の違いを伺いたいです。

 

杉田 浩崇:

 学部で卒業する人と、大学院進学を希望する人では、基本的に卒業論文の段階で考えてほしいことは同じです。自分の持っている教育に関する前提やものの見方を問いなおすこと。その問いが卒業・終了したあとも問いなおしたくなる問いになること。これらはどの学部生にも共通で求めていることです。

そのうえで、求められる覚悟や進学を見すえた積み重ねという点では、少し違いがあります。

やっぱり研究者養成というのが教教のいいところだと思いますが、研究者として自立するためには色々と大変なことがあって、そのための覚悟がいりますよね。学部生からストレートに大学院に行く場合は、目の前の就職をせずに修士課程や博士課程に進学するわけで。私は教員免許を持っていないんですけど、「教員免許を持っていない、博士課程を修了した27歳」となったら、どこの企業が雇ってくれるのか、と。すると、やっぱりそれなりの覚悟が必要になるかなと思いますね。また、研究を進めるのって、筋トレ的なところがあって。語学なども、毎日毎日積み重ねていかないとできていかないじゃないですか。研究するときも同じで、関連する研究を読んだりとか、文章を書いたりとか、コツコツ積み重ねていく必要があるわけです。

また、学部生と大学院生の違いで言えば、その置かれる環境が違うと思います。卒業論文作成の場合、教育哲学研究室では学部生だけが参加するゼミがありますが、学部だと4~8人くらいで行うことが多くて、質疑応答も参加する学部3・4年生の間で完結しますね。ところが、大学院のゼミは10人以上で行いますし、参加者も修士課程1年から博士課程3年まで幅広く、OBやOGが来てくれることもあります。張り詰める空気があって、だから「ちょっとできませんでした」みたいなことになると、冷ややかな目で見られることもあります。そのへんで鍛えられますね。

 

米村 美輝:

準備を万端にしないといけないですね。

 

杉田 浩崇:

質問されても何を質問されているのかわからないというようなレベルの高いものがきたり。私が大学院生のころは、OBやOG側のほうを見ることができませんでしたね(笑)。

 

末次 沙彩:

一度参加したことありますけど、知らない人ばっかりだし、明らかに大学生じゃない年齢の人がいたりもしますよね。

 

米村 美輝:

先程、杉田先生が「質問されても何を質問されているのかわからない」とおっしゃっていたのと関連がある質問なのですが、

私の勝手なイメージも含みますが、教育哲学研究室の方々は、質問や、なにか説明をなさったりするとき、教育哲学研究室の性質なのか、一回聞いただけじゃわからない言葉遣い、といいますか。すぐに理解できる言葉じゃないときが私にはありまして。

教育哲学研究室にとって、独自の言葉に対する何かがあるのかなと。例えば、丸山先生の授業でも、先生が最初に一文おっしゃっても「ん?」ってなってしまって。その後に、先生が具体例を出してくださるので、「ああ、こういうことかな?」となんとなくわかっていくようなことがありまして。

 

杉田 浩崇:

個人の特性もあるとは思いますが、哲学という営み自体がそういうふうなことを生み出しやすいのかなと。自分たちが当たり前だと思ってることに「ほんとうにそうなのか」って疑問を出して考えるので、「ほんとうにそうなのか」って思ったことを自分で考えて言葉にするときに、多くの人が普段使っている言葉で言ったのでは、上手く伝えきれない。それを伝えようとすると新しい言葉を生み出したり、自分たちがこうだと思っていることをずらしていったりしないといけないんですよね。例えば、アクティブ・ラーニングで言えば、アクティブ・ラーニングするためにどうしたらいいか、子どもを主体的にするためにはどうしたらいいのかと考えがちなところで、そもそも「主体」って何かって言い出すわけですよ。例えば語源にさかのぼったりして、主体は実は従属を前提にしている、なんて言うわけです。私たちが子どもに主体的になってほしいと思っているときに使う「主体」という言葉が、もしかしたら思っている通りのことを意味せず、場合によっては裏切るかもしれないのだとすれば、違う言葉が必要になるかもしれない。そしたらよくわからない言葉が出てきたりするかもしれませんね。哲学者は私たちが使っている言葉や概念に敏感なので、明確な定義をするために、新しい言葉を必要とするわけです。

杉田先生から教育を志す・教育に関心がある仲間へのメッセージ

教育リーダを志す人に読んでほしい一冊とその理由

杉田 浩崇:

石井英真 編著『流行に踊る日本の教育』東洋館出版社、2020年。 

昨今の「新しい」とされる様々な用語に踊らされることなく、これまでの教育学の蓄積を踏まえた考えをもつことができるようにつくられた本です。

 

教教への進学を考えている人、教教に興味・関心がある人に一言お願いいたします。

杉田 浩崇:

人が変わり成長していく場は学校だけに限りません。また、いまの学校だけが学校のあり方ではありません。教教は広い視野を持って「教育なるもの」について考えられる場です。また、教育に関する問題について、問題だと感じると同時に、そもそも本当に問題なのか、問題だと見えさせている前提は何か、と考えることも大切だと思います。

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