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インタビュー
小川 佳万
教授
専門分野:比較国際教育学
趣味:旅行、鉄道
好きなもの:寿司
東広島のお気に入りのお店:コメダ珈琲
研究内容
教育行政学、教育制度学を専門としています。多言語社会における教育統治について関心があり、これまでアメリカ合衆国の連邦及びカリフォルニア州の言語マイノリティ教育政策を対象に、言語マイノリティの平等な教育機会をめぐる教育統治と多様な教育理念を保障する学校制度のあり方について研究してきました。日本においては、主に大阪府市における教育行政改革の展開と課題について研究してきました。
主な研究論文・著書
・「言語マイノリティの平等な教育機会の保障における学校選択の可能性 −カリフォルニア州における双方向イマージョン・プログラム実施校の検討−」『日本教育行政学会年報』40号, 2014年,91-108頁。
・「大阪市教育委員会における「熟議『学校選択制』」の検討 —「教育の民意」の形成における熟議の可能性」日本教育行政学会『学会創立50周年記念 教育行政学研究と教育行政改革の軌跡と展望』2016年、 105-111頁。
・編著『新・教職課程演習第4巻 教育法規・教育制度・教育経営』協同出版、2021年。
インタビュアー:橋本 拓夢(行財政学研究室D1)
滝沢先生の研究者としての信念
~「子どもを中心に据えた社会構想」として教育制度をデザインする~
橋本 拓夢:
早速ですが研究関連の質問から始めたいと思います。教育学の研究者になろうと思ったきっかけについて、事前アンケートでは「子ども一人ひとりを大切にする社会の構築に貢献できる学問だと思ったから」と回答されていました。滝沢先生の目指す社会像について、今一度詳しくお聞かせいただければと思います。
滝沢 潤:
人間にとって何が幸せかそれぞれだと思います。それぞれでいいと思います。子どもとして生きている間、というかどの年代でも自由に生きるべきだと思う。でも、特に子どもは、自分の環境を変えることが難しい。保護されなければならない。そうした中で、子どもたちそれぞれが自由に生きられるようにする。その時々に寂しい思い、悲しい思いをしてほしくないな、っていう。どういう境遇であってもね。社会全体で、子どもたちをそういうふうにさせない、させたままにしない。それがあるべき社会の姿だと思う。家庭でいろいろな事情があっても、学校や周りから大事にされる、尊重される。こういう環境がすべての子どもに保障される必要があると思っています。
橋本 拓夢:
それを実現するための条件整備をなしていくことが教育行政の役割、ということですね。
滝沢先生の院生時代と研究テーマ
~「言葉」を横串に、多言語社会における教育ガバナンスを考究する~
橋本 拓夢:
実は、個人的に聞きたかったことがありまして。かつて先生からお伺いした事についてなのですが、先生の院生時代、先生の研究テーマである「多言語社会における教育ガバナンス(統治)」について、他の院生から「なに、それ意味あるの?」みたいな心無い言葉もかけられたことがある、と聞きました。それでも、ご自身の研究を信じて今まで続けてこられたのは、ご自身を突き動かす何か物凄い力があったと想像するのです。その力っていうのは一体どういったものだったのでしょうか。
滝沢 潤:
私の恩師の河野和清先生が、自分が大事だと思うこと、面白いと思うことができる環境を与えてくださったことが大きいですね。
院生時代、1990年代は、東西冷戦がおわってグローバル化が到来するというのは多くの人が語っていたし、そういう時代の到来は間違いない、と思っていました。一方で、一定豊かになった社会の中で、それでも不幸、大切にされない状況があった。みんな豊かになったら、財の再配分がうまく行けば、みんなが一定程度に幸せに暮らせるはずだった。しかし、現実には今でも財の再配分はうまくいっていない。
そんな中で、「単に共通の一律の教育条件を平等に保障するだけでは意味がない。むしろそれが抑圧になるんじゃないか。」というようなことを考えたとき、差異、多様性、それを前提にした教育行政を考えるべきなんじゃないかって思いました。
根本的に教育、人間の生活・発達を考えたときに、言葉を使うわけですよ。希望の体現とか、人間の生活・発達の中で、人間として欠かすわけにはいかない。そう考えると、多言語社会では、言葉に関する関心、意識が高いだろうと思いました。社会の中での言葉のあり方がいろんな側面から問われる社会、それが多言語社会だろうと。そういうことを研究として取り扱うのが面白いんじゃないのかな。となると移民国家ですよね。当時の日本は、これから外国人労働者を本格的に受け入れるということになった直後の時期でしたね。
ところで、アメリカは、移民が国の成り立ちの大きな部分をしめていますよね。私たちの研究室は、伝統的にアメリカ教育行政学研究をしていましたし、恩師もそれに貢献されていましたから、それを引き継ぎつつ、ただアプローチとしては価値の問題をどう扱うか、教育における言語の問題を追求することにしました。教育における言語の問題について、暫定的に見聞きしたなかではカリフォルニアで特に、社会的な問題になっていた。教室の中で収まらない問題になっていたんですよ。
まさにこれはガバナンス、教育統治(教育をめぐる政治)の問題かなと。多言語社会における教授学習言語をめぐる教育統治というのは、人間の尊厳をいかに確立するのかという問題に関わることです。でも、時代の大きな変化を考えたときにも、研究として形にするのは簡単ではありませんでしたね。研究の方法、アプローチがなかったのでね。だから、それをやるには不安もあったし、大変だなと思うときもあったんだけど、アメリカでのいろいろな出会いがあって、なんとか形にできたかなと思っています。アメリカの学校選択制、チャータースクール、アカウンタビリティ、教育委員会制度など、様々な研究があるが、その様々な研究で外せないのは、「言葉」ですよね。
そこで、教育制度の研究を言葉を「横串」にして関連づけて考えたい、そういう発想があった。学校選択制が公教育のあり方を問う問題として大きな注目を集めた時代でしたけれども、教育委員会の意思決定や教育の結果責任(アカウンタビリティ)、学力の評価に関しても、欠かせない問題として言葉の問題がある。そうした問題を言葉で横串を刺すように関連づけて考えてみる。すると、それぞれがもつ現状や課題が見えてくる。そういう研究の構想でした。でも、それぞれのテーマについて、言葉の問題を関連づけてやらないといけないから、時間がかかるよね。
橋本 拓夢:
そうでなければ見えない、というか。
滝沢 潤:
そうそう、言葉というのは全てに関わってくるから。社会や歴史、学問など、「言葉」に注目することは普遍性があるし、外せない根本的な問題だと思う。研究の意義や可能性があまり理解してもらえない時は、「このやろう」と思いながらやりましたよ(笑)。学会でもアメリカのバイリンガル教育の研究という感じで受け止められた。それも間違いじゃないんだけど。もっと普遍的な根源的なテーマにアプローチしているつもりでした。現象としてはバイリンガル教育法とかそういうものにも取り組みましたが。
橋本 拓夢:
1990年代に、滝沢先生は時代を先読みしていたんですね。
滝沢 潤:
先読みというか、構造的な問題としてそうでしょう。冷戦後、社会体制という壁がなくなり、グローバル化や市場獲得の動きが活発となった。そうなれば、人や物や情報の動きもより広範囲に加速していくだろうと。僕が感じているだけでなくみんなそう思っていた。逆に言えば、これからは、新型コロナ・ウイルスがまた変えていくだろうね。
滝沢先生の社会貢献活動に対する考え方
~象牙の塔にとどまらず「対話」できる専門家へ~
橋本 拓夢:
先生は大学のみならず、広島県の市町村の教育行政評価や学校規模の「適正化」に関する委員会の委員長を務めておられたり、メディアでご自身の見解を述べたりされていますよね。先生はこういった活動について、私たち指導学生にも「いずれ、そういう機会があるかもしれないから、しっかり勉強しておくんだよ」とご指導くださいます。学術界(アカデミア)から一歩外に出て、市民社会との対話、接点をもつときにどういうことを意識していらっしゃいますか?
滝沢 潤:
社会貢献というのが大学の使命としてあるんだけど、それが研究者としてどう評価されるのかというのは、いろいろ議論もあるし、考えるところもある。私のように教育行財政学を専門とする立場からすれば、教育行政に関する議論って必ずしても一般社会の文脈では議論されてないから、そういうところで関わりつつ、専門家としての知見をいかすことが大切だと思っています。
自分の研究室、つまりアカデミック・ソサエティ(学術の世界)に閉じこもっていてもしかたないじゃやない。もちろん論文を書いたり、出版をしたり、というのも、大事な社会貢献だけど、なかなかそれでは接点をもてない場合もある。様々なご縁もあって、ある程度のキャリアを築いてきて、専門家の知見っていうのは専門的な分野で必要とされていると感じていますよ。だから、社会貢献の機会を与えていただいたら、これまで研究費をはじめとする公的支援のもとで研究を行ってきたわけですから、研究成果を社会に還元するという責任があると思っています。
橋本さんがいみじくも「対話」という言葉を使ってくれましたけど、やっぱり僕らが、地域の人たちに何かを教えるという話ではないんですよね。
その地域の歴史的な文脈や社会的な背景、様々な利害関係がある中で、今、目の前に広がる教育をより良くしていきたいという思いを共有する姿勢を持ち続けたいと思っています。
こちらの知見を述べて、それをそのまま形にしてもらうのを望んでいるわけではないんですよ。どうしたらいいのかを考えるための一つの窓口として、知見を提供する、という姿勢、役割を果たすことが良いのかなと思ってます。
滝沢先生の選ぶ、教育リーダーを志す人に読んでほしい一冊
~学術書と向き合い、自らの「問い」へと昇華させる「勉強」をしてほしい~
橋本 拓夢:
先生は教育リーダーを志す人に、「わくわくする本を繰り返し読むこと」をご提案されていらっしゃいますが、先生がわくわくすると感じた本はなんでしょう? その本の魅力について簡単に教えてください。
滝沢 潤:
様々な本に出会ってきましたが、河野先生の博士論文(河野和清『現代アメリカ教育行政学の研究―行動科学的教育行政学の特質と課題』多賀出版、1995年)が面白いと感じましたね。
河野先生は、教育行政学とは何かという根本的、理論的な問題について研究されています。先生の博士論文は、広く、社会科学とはなにか、どうあるべきか、を考えさせられるものでした。
様々な教育の理念(教育のあり方の理想)があり、そうした多様な教育理念を社会の中で認めれば、矛盾したり、対立したりすることもありますよね。この問題をどう扱うのかが社会科学や教育行政学の課題であると指摘されたのが、河野先生の一つの大きな業績だと思っています。
例えば、アメリカでは、(社会全員が英語を使う)イングリッシュ・オンリーなのか、(英語と各個人の母語(第一言語)を大事にする)イングリッシュ・プラスなのか、というのが対立しているわけですよ。例えば、イングリッシュ・オンリーという教育理念や目的がはっきりしていれば、教育の能率性・効率性を上げることは論理的にできるわけです。イングリッシュオンリーという価値観のもとで能率性・効率性をあげようとするということは、英語はとても大事なんだけれども、(英語以外を母語とする)言語マイノリティの母語を大事にするイングリッシュ・プラスという教育理念・価値からすれば、イングリッシュ・オンリーによる教育は、抑圧でしかない、という状況もあり得るわけです。
こういった教育理念、言い換えると価値の問題についての河野先生の研究を自分の研究として引き受けたところがありますね。
啓発的な論文や本よりも、アカデミックなもののほうが、その根底にあるものを引き受けて自分の研究をしたいなと思ったというか。だからそうなると高校生が読むような本じゃないよね(笑)
もう一つは黒崎勲先生が書いた『教育行政学』(岩波書店、1999年)です。これも教育行政学が何かっていうもう一つの問いだよね。河野先生は、教育行政学がどういう学として成り立つべきか、どういう認識論に立つのかっていう問題を探求されたけど、黒崎先生は教育行政学を制度論として成り立たせなければならない、という立場に立っておられましたね。これは非常に影響を受けました。このお二人の本に影響を受けて、私は、価値の問題をどう扱うか、それを制度論としてどのように論じることができるのかという二つを引受けてやったつもりです。
橋本 拓夢:
ではこの二冊については相当何度も読まれたのですね。
滝沢 潤:
ええ、読みましたよ。ただ高校生向けじゃない、ということもあってなかなか紹介しづらいですけど(笑)
やっぱり印象に残って一番影響があったかなと思うのはお二人の著書ですね。
社会学全般でいうと、佐々木毅(ささきたけし)とか、上野千鶴子(うえのち ずこ)とか色々読みましたけど、僕らの問いに佐々木先生が答えているというわけではないし、当たり前だけど、探求すべき重要な問いというものに全て答えてくれているわけではないですから。
だからこそいろいろな問いを立てて研究が積み重なるということ、それを感じましたね。いろいろ勉強しましたけど、やっぱりこれで僕の疑問や探求したいことに全て答えてくれているわけではないよなと。教育行政学としてしっかり受け止めて、守備範囲としてね、答えていかなければならない、そういうテーマがある。まあこれは当たり前な話ではありますけどね。やっぱり勉強だけでは研究にはならない。
橋本 拓夢:
「勉強と研究は違う」という話は、先生よくされていますね。
滝沢 潤:
もちろん、勉強がなければ研究はできないけどね。
勉強してレポート書くのが上手な子もいるけど、そこから先に行けない子もいるから。それはやっぱり独自の問いがないと。問いを立てるというのはその人の生き方、経験してきたことを問いとして高めることが必要だと思います。
先日、オープンキャンパスがあって、個別相談会がありました。その時、ある高校生が、もともと東京の閑静な住宅に住んでいたけど、小学生の時に引っ越したそうです。そこは、以前の社会環境とはぜんぜん違って、子どもたちが抱えている問題も違うし、学力も違っている。以前のほうが、様々な面で非常に良かったと感じたそうです。そういう経験から教育の格差に関心を持ったそうです。素晴らしいことだと思います。ただそこで、「教育格差」といったとき、なにが教育格差なのか、そこを明確にするための勉強は必要なのかなと思いました。その生徒さんが感じている問題意識はすばらしいものだけど、その問題意識の背景にあるのは何か。地理的状況、保護者の階層、経済状況、文化等、何が要因なのか。問題関心を大事にしつつも、それをどういう「問い」、すなわち研究にしていくのか。そのための勉強は必要ですね。
滝沢先生から未来の教教の仲間に向けて
~不確実な時代にこそ、新しい教育と社会を構想する可能性が開かれている~
橋本 拓夢:
教教に関心がある人、進学を感じている人への一言について、先生は、事前アンケートでは、「現在は、歴史の大きな転換期だと思います。こうした時代にこそ教育学研究の発展が求められます。是非、望ましい社会と教育を考える教育学を学び、探究してほしいと思います」と回答されていますね。やっぱり教育学を探求していく上では、望ましい社会像をセットで考えていくっていうか、そこがないと教育学が成り立たないという理解をされておられるのですね。
滝沢 潤:
そうじゃないかな。僕でいえば、望ましい社会というのは、多様性に対する寛容さ、相互尊重する社会であり、それを目指すための教育、ということなのかな。でも、望ましい社会のありかたを押し付けるということとは違うと思う。それは一つの専制になってしまう。一方で望ましい社会とは何なのかという問いから逃げるわけにもいかない。
究極的には個人個人が違うのだから、それぞれの価値観を尊重する社会を実現するというのは簡単ではないと思う。でもそれを目指すことを忘れてはいけないというか。それに日本という社会、国は、世界に訴えていかないといけないと思いますね。「非国民」なんて言葉があった時代を経験している国が、結局国を滅ぼしたわけでしょ。そこに教育が大きく加担してきた。「一つになること」は、人々を熱狂させ、いろいろなものを差別したり排除したりすることを肯定するじゃないですか。これは広く人類社会が持ってきた課題ですよね。
ただ一方でね、社会というのは単なる個人の集まりでもないからね。そこに一定の関係が成り立っているから社会なのであって、関係が成り立っていないと人間が生きていけるかって言うとそうではない。関係をつくるのも言葉であり、どのような関係を、どのような社会的な制度で実現するのか。私が多言語社会における教育統治という問題関心で教育行政学を研究してきたことは、そういうことだと思います。
いろんなことが不透明で不確実、だからこそ、いろんな可能性が開かれているんじゃないですかね。こっちの道もあっちの道もあったり、いろんな状況が併存したりしているのが今でしょうね。これまでの前提、理論の前提も変わってくると思います。だからこそ、新しい教育学をつくっていくことに意欲を持つ人に是非、「教教」に来てもらいたいな。実際は、最初からそこまで考えていなくてもいいです。だから、「教教」を入ってから、「わくわく」を感じられる、いろいろな可能性や広がりがある学びの場・コミュニティにしていきたいな、と思っています。