STAFF
インタビュー
三時 眞貴子
准教授
専門分野:西洋教育史
趣味:着物を着ること。家族でカタン(ボードゲーム)をすること。
好きなもの:うどん、Official髭男dism
東広島のお気に入りのお店:佛蘭西屋
研究内容
主な研究論文・著書
インタビュアー:大矢龍弥(博士課程後期1年)、木須悠文(学部4年生)
※インタビューを実施した当時の学年
三時先生の教育学研究への向き合い方
大矢 龍弥:
先生が性格的におおらかという話で、先生ご自身は良く言えばおおらかで、悪く言えば大雑把とおっしゃっていると思います。先生ご自身が生きてこられてそうだなと感じたのですか、それともどなたかに言われたんですか?
三時 眞貴子:
ここで助手になるときに、安原先生(注:安原義仁先生(専門はイギリス大学史))という私の指導教官に、「助手とは」「働くとは」という言葉を頂いたときに、安原先生が私を評したのがその言葉。「君はよく言えばおおらかだけど大雑把だから事務仕事ちゃんとするんだよ」という話だったんだけど。
同時に言われたのが、私単純だったので、物事の機微とか考えないというか、考えるとめんどくさくなるでしょ、物事が複雑になるというか、だから避けてたんだよね、ちょっと変わっている人と思われてもいいから、あまりそういうことに気を使わないように生きていこうと思ってたんだけど、安原先生は鋭く気づかれていて、「物事には深さと奥行きがあるんだ」と。「表面的なところで物事を判断したら、仕事となると、それはよくないから、」という話も一緒にしてくださったんだよね。そのときに働くための心の準備として、自分は大雑把だから、ちゃんとね、細かく確認しないと大きなミスをしてしまうかもしれないとか、表面的な説明を鵜呑みにしていろんなことを判断しない、ということはそれ以降気をつけてやるようにしました。
大矢 龍弥:
先生が研究をされている内容は複雑さを解きほぐすという内容だったので、避けているというのは少し意外だなと感じました。研究とは関係があったんですか。
三時 眞貴子:
それはD3のときにお話をしていただいたので、そのときは少しは研究がわかっていたときだと思うけど、基本的には学部生や院生のときは、素直に本を読んで素直に受け止めていたんだよね。だから教育の世界っていうのの裏とか汚さとか、気づけないだめだめ研究者っていうか。「葛藤していた」「頑張っていた」って書かれていたら、そうなんだ、と素直に受け止める研究の形だったんだけど、それはだんだん変わっていったかな。まだD3のときもそういうところはあって、もはや教育をよきものとしてだけ捉えるという考え方はしなくなっていたけど、書かれたことを結構鵜呑みにしていた時代ですね。安原先生のその言葉が研究にも影響を与えたかどうかはわからない。私の研究に一番影響を与えたのは岩下誠さん(注:現・青山学院大学)なので、彼と、Dのころ初めてあって、彼の論文を読んだり共同研究を始めて、単純に捉えてばかりでは見失うんだと気付かされた。ちゃんと分析するということを理解できたのはそこからだったね。
まあ、のんびりだったんよ昔の指導って。いつか気づけばいい、というスタンスで。先生たちが批判的思考は大事って言うのは今も昔も変わらないけど、言葉で複雑な分析してやりなさいということは言われたことなくて。先生たち自身はされていて、私達、職人の世界だよね。習うより慣れろ、と。まずは真似して少しずつ身につけてみたいな、長期的なゆっくり育てる時代だったので、色んな人と話す中で少しずつ気づいていって、今の研究スタイルになっているっていう感じ。その言葉と関係あるかは不明かな。
西洋教育史との出会い
木須 悠文:
西洋教育史のどういうところに魅力を感じて選ばれたのかなと。
三時 眞貴子:
いろいろな要素があって、一つは、私ね、『王家の紋章』っていう考古学の漫画知ってる?
キャロルっていう考古学を学んでいるアメリカ人の女の子がエジプトにいって、今で言う異世界転生ならぬ、ファラオの時代に行っちゃうっていう、話の漫画で、まだ終わってないんだけど、小学校のときによんで大好きになって、いつか自分も考古学者になりたいなって思ったんだよね。でも中学校でいじめと不登校経験して、高校は第一志望に落ちて私立の女子校に行ったんだけど、高校が中学と違ってすごく楽しかったんだよね。同じ学校なのに、なんでこんなに馴染み度が違うんだろう、とか、なんで中学校のとき学校に行かなければならなかったんだろうって、そんなのを考え出して教育学行ってみようかなってなったんだよね。そういうのが前提で、ここに入って、教育史の授業があるって本人的にはやる気があったんだけど、私、あ、さっきいったように、授業ってお互いに適当だったのもあって、成績すごく良かったんですよ。多くの人が良かったんだけど、当時の一番いい成績って「優」だったんだけど、ほぼ「優」だったのね。当時、専門の教育って普通「優」しかありえないんだけど、西洋教育史だけ全部「良」だったのよね。なんであんなに好きなのに取れないんだろうって思って。それで、西洋教育史に行こうと思ったんだよね。
わかったのが安原先生と私の考え方って、すごく違ったんだと思うんだよね。私がすごく単純な人間だったから、深く物事を考えるっていうことをしてこなかったんだよね。
それもあって多分、歴史学の持つ奥深さとか一筋縄では行かないような世界を文章で表現することができていなかったんだと思う。すごく単純に書いてたんだと思うんだよね。そのせいでずっと「良」だったんだと思うんだけど。
現在の研究テーマに到るまで
~都市エリートの教育から子どもの「教育」へ ~
大矢 龍弥:
学問分野のところで、先生は極貧児や虐待の分野について研究をされていますが、どのようにしてこうした分野に関心を持たれるようになったのですか?
三時 眞貴子:
それもいくつか複数の文脈があって、一つは、初職が熊本の尚絅大学っていう女子大だったんだけど、そこで担当した科目が大学の教職科目と幼児学の教育原理だったんだよね。幼児教育の原理だから、幼児のことを話さなければならないじゃない? 虐待の問題って外せなかったんだよね。そこで虐待の話をしてたんだけど、そのときって結婚はしてるんだけど子ども供がいないので、客観的に小さな虐待と言われる、日常的にストレスをためた母親が子ども供に、「したくないのになにかしてしまう」という葛藤や手記があって、そういうのを紐解きながら、でもやっぱりストレスを溜めて子ども供にむけてしまうという気持ちが凄くよく分かるなと思っていて、それって母親一人を攻めることができないんじゃないかなということを思ってて、熊本で慈恵病院が、こうのとりのゆりかご、赤ちゃんポストを初めて作ったというときも、そうやって社会がシステムとして、育児を支援するって大事だなと思いながら、あいきょうだい愛知教育大学にいったわけですね。実際、子ども供産んだら、「虐待する気持ちってまったくわからんな」と、理解できない、客観視できなくなったんだよね。教育学でそんなこといってたら、教育学の主流の方向とは逆で、学者じゃないな、困ったなと思ったとき、学部3年向けの「世界の教育学」という授業を受け持つことになって、そこで何やろうかなと思って、「子供ども被害の社会史」をやろうと思って、虐待もそうだし、児童労働もそうだし、子ども兵士もそうだし。今子どもたちが被害にあっているものを歴史的に読み解くという、客観的に調べて授業でやることで、またちゃんと虐待の話を研究者として客観的に向き合えるんじゃないかなと。なんか、もう読めなくなってたんだよね、虐待の話が。あまりにもつらすぎて。
都市エリート(注:代表著書は三時眞貴子『イギリス都市文化と教育――ウォリントン・アカデミーの教育社会史』昭和堂 2012年)とか、前のテーマ(都市エリートのこと)とか、お酒を飲んだりしながら楽しかったんだけど、虐待問題に対応するときに、テーマ的なことと自分の気持がマッチしなくなってきてて、これまずいなと思って、そうやって始めた。それが功を奏して、虐待の問題を母と子の関係で見るからおかしなことになるんだなと気づいて。母親の心情であるとか、子どもの状況とか、そういうことばかりに目がいってしまっていたから、社会の問題として置くことによって虐待問題を捉えることにその時成功したんだよね。それで、都市エリートのときのフィールドってマンチェスタだったから、関連の文書をみてたときに、インダストリアル・スクールを発見し、インダストリアル・スクールならできるかもと思って、マンチェスタの都市エリートたちがやってた子ども支援の活動で、前の研究から続く一方で、私が当時本当に葛藤していた子供どもを育てることみたいな、虐待、こくひ(酷使?)(すみません、音声データがなく確認ができませんでした)とか、ああいう問題に直結している問題だから、始めたっていう感じ。ものすごく自分の体験によっているというか、初めて自分で決めたテーマ。
大矢 龍弥:
研究者として葛藤があって、授業を行う中で学びながら超えていったということだったんですね。
三時先生による教育の歴史の紐解き方
大矢 龍弥:
先生は手書き文書を用いた研究だったら誰にも負けないと自負されていると思いますけど、手書き文書を用いた研究の難しさや面白さってなんですか?
三時 眞貴子:
私、そもそもが18世紀やってたので、18世紀の資料って、プリンテッドの史料って殆どないんだよね。活版印刷はもちろんあるので、印刷する媒体ってあるんだけど、でもそれって特別なもので。実態を知ろうと思うと、書簡だったり議事録だったりするのね18世紀は。それは基本手書き文書だったので、18世紀をやろうと思ったら手書き文書でやろうっていう勢い。日本史の人が中世のてにをはの達筆なものをやるのと同じように、18世紀以前だったら手書き文書しかない。それで大学院時代トレーニング受けているので、手書き文書自体がめんどいとかって思わないんだよね。でもやることはめんどいんだよ、特に18世紀はEっていう表記がFっていう表記だったり、単語が変わるんだよね。調べててもあれ、この単語ないよな、あ、これFじゃないのか、とか。きれいな達筆な人の筆記体だったらいいけど字が汚い人の筆記体って何を書いてあるかわからない。うにうにうに、全部「m」にしか見えない(笑)。その解読が難しいんだけど、今イギリス人であっても筆記体勉強しないから、読める人がいなくなってきているんだよね。読むと言うことはトレーニングを受けると言うことだから、めんどくさいっちゃめんどくさいから、プリンテッドな史料になっているのも多いので、まあ、なんていうのかな、自分としてはわざわざ手書き文書をやろうと思ってはいなかったけど、手書き文書がでてきても普通に読んでた。そしたら他の人が読んでいないことがよく分かったので、これを中心に報告したら他と被らないな、というのがよくわかってやってる。19世紀とか20世紀のことやっても、議事録のもとになるものは手書きなんだよね。最初の記録って手書きになる。生の一次史料となると、20世紀前半までは手書きだから。公式文書つかって研究することもできるけど、私はあえてそれを使って研究する必要性を感じなかった。手書き文書に書かれている最初の一歩というか、メモられていることが面白くて、それをやってる感じ。
大矢 龍弥:
手書きの文書だと、書いてあるところだけじゃなくて書いてないところにも意味があると聞いたことがあるんですけど、やはりそういうところも手書き文書の魅力でしょうか。
三時 眞貴子:
詳しく説明していないところとか、省かれているところ、というところに、あえて省いた場合と、どうでもいいから省いた場合があって、そういう文脈を読み解くのも楽しい。確かめようがないから想像でしかない世界なんだよね。そこに論理的なことを組み立てていくことは面白い。ただそれはプリンテッドでも同じ。
三時先生の広大生時代
木須 悠文:
先生が学生時代だった頃の今の教教で変わっているところと変わらないところはありますか?
三時 眞貴子:
当時、教授と准教授の先生がいらっしゃって、教授の先生の地位がかなり高かったんだよね。権威主義というか、権威主義と言ってしまえばそれまでだけど。なんというか、近寄りがたい存在で、恐れ多いという感じ。
学部の授業とかはあまり重要に捉えていたわけじゃなかったんじゃないかな。授業よりちゃんと本読めよ、と。
私達も、今のみなさんみたいに真面目に「教育学とは」ということを考えていたわけじゃなくて。私の同級生では、一人だけとっても真面目な人がいてみんなその子に頼っていた。
これは、当時と今で、大学教育そのものの意味がだいぶ変わっていて、我々のときは大学の学びって大学生活のほんの一部に過ぎなくて、先生たちも、学部生のことを教員が気にするっていうのはあまりない。ゼミに入ったら先生たちが私達のことを理解し始める。卒論の指導も、特研のときにはガンガン指導される。ただ基本自分でやれよという形だった。
河野先生(注:元・教育行財政学研究室の先生)がチューターで、チューターの先生は学年をかわいがってくれるということは今も変わらない。当時は教養部のチューターと専門部のチューターがいて、河野先生は教育的な方だったからよく飲み会などにもいらしてくださった。助手が研究室それぞれいたから、助手もチューターとしてついていた。教員2人に助手1人で、3人が学年をみてくれていた。高校の担任と生徒という形とはぜんぜん違う形だった。基本的には、河野先生の助手がついてくれていて、何かあったら助手の方に話をしていた。飲み会で河野先生がいらっしゃってくれて、みんな河野先生がすきだったから「河野パパ」ってよんでる人もいた。今とは感覚がぜんぜん違うかな。
私、西洋教育史に3年生から入って、池端先生(注:池端次郎先生(専門はフランス大学史))と安原先生が座られて特研が始まるんだけど(お二人とも三時先生の学生時代の指導教員)、当然特研の前に時間になったら先生をお呼びして、来ていただき、学生が司会をして特研をして、最後にお言葉をいただく、という形で、1時から5時まで長丁場でゆっくりやってた感じかな。
池端先生には何回か怒られたことがあって、今でも覚えているんだけど、「せいとうか」って言葉を使ったときに、字が「正当化」「正統化」2つあって、私はその時、当然のように「正統化」の方だと思って使っていた言葉が、「そっちじゃない!」って怒られて、私はぴえーんって泣いて。っていうような事もあって。「そんなことも理解せず発表するのか!」って怒られて。終わったときに、「怒って悪かった」みたいなことを言って出るみたいな。
でも、うちは優しい方で、哲学研究室はすごくて、
広大の教育って権威主義ってよく言われて、今でも少しそうだなと思う。でも、すごく学問的な質の高さが漂う感じだった。よその大学から院に入るには、研究生になってからじゃないと入学試験許されていなかった。うちの大学院に入るには、うちのしきたりというか、暗黙のルールも含めて理解してからじゃないとついていけないので、追い出されちゃうからね。研究だけじゃなくてふるまいも学んでから入ってこいみたいな感じだったから、私より上の世代はすごかったと思う。先生たちが錚々たる人たちで、錚々たる人たちってそうそう変わっているのね。今で言うアカハラなんていうことは普通に行われていたこともあると思う。いいかわるいか別として文化だったと思う。
学部生に限って言うと今の子のほうが真面目。 専門の授業は演習も含めて放課後誰かの家に集まって遅くまで発表資料作ったりしていたけど、今みたいに学部教育を頑張れって教員たちも言われてなかったと思うので、授業で学生を育てるっていう感覚は先生たちにもなかったと思う。それなりにみんな発表して、こなして、楽しんで、それも一つの娯楽みたいなもんで、発表準備も。誰かの家に集まったり、ココスとかドリンクバーで朝まで、っていうのも楽しくやってた感じ。今の学生さんって学部からめっちゃまじめだな、って思って。私達も学部時代にどれだけ鍛えるかっていうのを考えるようになってるので、教育の比重がすごく上がってると思う。 広大って研究機関って感じだったけど、今はより教育の比重がすごく上がってるなって思う。そういう違いはすごくある。
三時先生から未来の教教の仲間に向けて
~「教育」を問うことは「人が生きること」を問うことである ~
大矢 龍弥:
教教に関心のある人に一言、というところで、
「教育は学問の中でも生きることそのものを問う学問」だとアンケートで答えていらっしゃいましたが、そこについて教えていただければと思います。
三時 眞貴子:
結局、教育っていうのをどんなふうに考えるのかということだけど、私は人が育つプロセスだと思っていて、停滞とか後退とか前進とか、いろいろな言い方あると思うけど、それをふくめてプロセスだと思う。教育を幅広い観点から捉えた時、教教だと普通だけど、学校に縛られないじゃない。地域のお祭りだって教育的機能、みたいなことを探る。それって何かっていうと地域の中で人が育つプロセスっていうのを捉えているんだろうなって思うので、人が育つプロセスってことは生きていることなんだなっていうふうに捉えている。だから、教育が人が生きるプロセスの中で支えになるときもあれば障害になるときもあって、ああいう人と関わったからこういう人生が難しくなるとか、そういう教育の論理を信じちゃったからうまく行かないとか、そういったことも生じるじゃない。教育っていうのは常に人を支えたり、人が元気になるような作用をするわけじゃない。そんなことも含めて生きることを問うということなんだろうなあと。願わくばみんなが自分が生きるということを納得して生きていくということが私にとっての理想の社会なので、そのための仕組みや考え方とかを発信していけるといいなとそんなふうに思っているかな。